b29 flying fortress

One of the most frequently discussed arguments to come out of World War II is which was the “better” bomber, the Boeing B-17 Flying Fortress or the Consolidated B … Lee Cowan shows us a B-29 bomber rescued from the boneyard, and the World War II veterans and volunteers who helped launch it back into the skies. On 18 February 1943, the second prototype, flying out of Boeing Field in Seattle, experienced an engine fire and crashed. This was the first attack on Japanese islands since the Doolittle raid in April 1942. Oil flow to the valves was also increased, asbestos baffles installed around rubber push rod fittings to prevent oil loss, thorough pre-flight inspections made to detect unseated valves, and frequent replacement of the uppermost five cylinders (every 25 hours of engine time) and the entire engines (every 75 hours). Rather than return the aircraft, the Soviets reverse engineered the American B-29s and used them as a pattern for the Tupolev Tu-4.[66]. The Petlyakov Pe-8—the sole heavy bomber operated by the Soviet Air Forces—first flew in 1936. The 73rd Bomb Wing launched the first mission against Japan from bases in the Marianas, on 24 November 1944, sending 111 B-29s to attack Tokyo. More importantly, in 1950 numbers of Soviet MiG-15 jet fighters appeared over Korea, and after the loss of 28 aircraft, future B-29 raids were restricted to night-only missions, largely in a supply-interdiction role. Accidents and incidents involving B-29's include: Aircraft of comparable role, configuration, and era, "B-29" redirects here. [8] In April 1939, Charles Lindbergh convinced General Henry H. Arnold to produce a new bomber in large numbers to counter the Germans' production. With the arrival of the mammoth Convair B-36, the B-29 was reclassified as a medium bomber by the Air Force. Three days later a second B-29, Bockscar, dropped another atomic bomb on Nagasaki. Marvin M. Stockett, Aircraft Commander) B-29-1-BW 42-6261,[N 5] disappeared after takeoff from Chakulia, India, over the Himalayas (12 KIA, 11 crew and one passenger). [79] There are also four complete airframes either in storage or under restoration, eight partial airframes in storage or under restoration, and four known wreck sites. Perhaps the most important tests were conducted by the XB-29G; it carried prototype jet engines in its bomb bay, and lowered them into the air stream to conduct measurements. "The Flight of the Hog Wild B-29 (WWII): The day the world went cold. [45] The B-29 effort was gradually shifted to the new bases in the Mariana Islands in the Central Pacific, with the last B-29 combat mission from India flown on 29 March 1945. ", "William F. (Bill) Welch — 31st and 91st SRS Recollections. Crews could use the tunnel if necessary to crawl from one pressurized compartment to the other.[38]. B-29s also dropped the atomic bombs on Hiroshima and Nagasaki and became the only aircraft that has ever used nuclear weapons in combat. The affected aircraft had the same reduced defensive firepower as the nuclear weapons-delivery intended Silverplate B-29 airframes, and could carry greater fuel and bomb loads as a result of the change. [29][30][31][32] The tail position initially had two .50 Browning machine guns and a single M2 20 mm cannon. Other versions were −41 (B-29A), −57, −59. The Boeing B-29 was a flying craft that was primarily designed to carry and drop extensive amounts of bombs and later converted to drop the first and only atomic bombs during an armed conflict. Tupolev Tu-4: Soviet Superfortress. Williams, Anthony G. and Emmanuel Gustin. ", "Japanese Aircraft In Royal Thai Air Force and Royal Thai Navy Service During WWII. The solution was to have bomb bays that were not pressurized, and a long tunnel joining the forward and rear crew compartments. Some B-29s were modified to act as test beds for various new systems or special conditions, including fire-control systems, cold-weather operations, and various armament configurations. Boeing submitted its Model 345 on 11 May 1940,[11] in competition with designs from Consolidated Aircraft (the Model 33, later to become the B-32),[12] Lockheed (the Lockheed XB-30),[13] and Douglas (the Douglas XB-31). Bombs fell over two kilometers away, damaged no civilian structures, but destroyed some tram lines, and destroyed both a Japanese military hospital and the Japanese secret police headquarters. This bomber-to-airliner derivation was similar to the B-17/Model 307 evolution. Boeing B-29 Superfortress Specifications - The Boeing B-29 Superfortress was at the forefront of American air attacks during World War II. Produced by Boeing, the Superfortress was considered to be the most advanced bomber aircraft of its time. [65], At the end of World War II, Soviet development with modern four-engined heavy bombers lagged behind the west. RTAF Flt Lt Therdsak Worrasap attacked a B-29, damaging it, but was shot down by return fire. The type was retired in the early 1960s after 3,970 of them had been built. The Soviet Union produced 847 Tupolev Tu-4s, an unlicensed reverse-engineered copy of the aircraft. The first B-29 flight to airfields in China (over the Himalayas, or "The Hump") took place on 24 April 1944. 最後の大規模攻撃となったのは同年のクリスマスで、まず錫箔を貼った模造紙(電探紙、今で言うチャフ)を散布し、レーダーを欺瞞させた後に高低の同時進入という巧妙な攻撃でサイパン島とテニアン島を攻撃し、B-29を4機撃破、11機に損傷を与えている。1945年(昭和20年)2月2日まで続いた日本軍のマリアナ諸島の航空基地攻撃により、B-29を19機完全撃破もしくは大破、35機が損傷し、アメリカ軍の死傷者は245名となった[122]。一方日本軍は延べ80機を出撃させて37機を損失したが、日本軍の損失の多くが戦闘機であったのに対して、アメリカ軍は高価なB-29多数と日本軍を上回る人的損害を被っており、マリアナ諸島への航空攻撃はアメリカの戦略に大きな影響は与えなかったが、相応の効果を挙げていたことになる[123]。アーノルドはB-29が戦わずして失われていくことに対して神経を尖らせており、ハンセルもB-29を混雑気味のサイパン島イスリー飛行場から、他飛行場へ避難させたり、基地レーダーを強化したり、駆逐艦をレーダーピケット艦として配置するなどの対策に追われたが、やがて、日本軍の出撃基地であった硫黄島への攻撃が激化すると、マリアナ諸島への攻撃は無くなった[112]。, また日本軍は、航空機によるマリアナ諸島への攻撃と並行して、サイパン島に空挺部隊で編成した特殊部隊を送り込み、地上でB-29を殲滅しようと計画し[124]、挺進集団に特殊部隊の編制を命じている。特殊部隊は挺進第1連隊の空挺隊員で編成され、奥山道郎大尉が部隊指揮官に任命された[125]。特殊部隊には陸軍中野学校の諜報員も入れられ、原寸大模型を用いたB-29の爆破訓練も行われた。この特殊部隊はのちに「義烈空挺隊」と命名されたが、出撃基地の予定であった硫黄島にアメリカ軍が侵攻してくる可能性が高くなったため、作戦は中止された[126]。のちに義烈空挺隊は沖縄戦において、アメリカ軍飛行場破壊任務に投入されて、アメリカ軍機9機を破壊炎上、29機を損傷させたのちに全滅し、アメリカ軍を大混乱に陥らせている[127]。, 義烈空挺隊の成功に気をよくした日本軍は、より大規模な空挺特攻作戦となる日本海軍によるサイパン島飛行場への剣号作戦や、日本陸軍による沖縄飛行場への烈作戦[128][129]を準備した。しかし義烈空挺隊から被った損害で日本軍による空挺特攻作戦を警戒していたアメリカ軍は、日本軍の空挺特攻作戦の準備が進んでいるという情報を掴むと、剣号作戦での海軍航空隊作戦機の出撃基地であった三沢基地を、8月9日と10日に艦載機で猛爆撃した。空挺隊員をサイパン島に空輸する予定であった一式陸上攻撃機25機は、巧妙にカムフラージュされていたにも関わらず、アメリカ軍艦載機は航空機のみを狙い撃つ緻密な爆撃で18機を完全撃破、7機を損傷させて壊滅状態にした[130]。輸送部隊の壊滅により作戦は延期を余儀なくされ、終戦まで決行することはできなかった[131][132][133]。, 1944年11月24日の初空襲以降11回の東京近郊への爆撃は、心理的効果は大きいものの実質的な効果は少なかった。12月13日から開始された名古屋の航空機工場への爆撃では大きな効果を挙げた。12月13日のB-29の75機による空襲は8,000mから9,800mからの爆撃であったが[134]、投下した爆弾の16%は目標の300m以内に命中、工場設備17%が破壊されて246名の技術者や作業員が死亡、同工場の生産能力は月産1,600台から1,200台に低下した[135]。12月18日にも再度ハンセルは名古屋爆撃を命じたが、今回の目標は三菱の飛行機組み立て工場であった。63機のB-29は目標の殆どが雲に覆われていたため、前回と同じ8,000mから9,850mの高高度からレーダー爆撃を行ったが[136]、爆撃精度は高く、工場の17%が破壊されて作業員400名が死傷し10日間の操業停止に追い込まれた。この2日間のB-29の損失は合わせて8機であった[137]。, ハンセルによる高高度精密爆撃がようやく成果を上げたが、この2回目の名古屋空襲と同じ1944年12月18日に、第20爆撃集団司令官ルメイは、中国で焼夷弾を使用した大都市焼夷弾無差別爆撃の実験を行っている。それは日本軍占領下の中華民国漢口大空襲であり、ルメイ指揮下の84機のB-29が500トンもの焼夷弾を漢口市街に投下し、漢口はその後3日にわたって燃え続けて市街の50%を灰燼に帰して、漢口の市民(ほとんどが中国人)約20,000人が死亡した[138]。市街地への無差別爆撃の有効性を証明したこの爆撃により、アーノルドはルメイを高く評価することとなった[139]。, 漢口で焼夷弾による無差別爆撃の効果が大きいと判断した第20空軍は、ハンセルの後任の参謀長ローリス・ノースタッド准将を通じてハンセルに名古屋市街への全面的な焼夷弾による無差別爆撃を指示した[140]。ハンセルはアーノルドに我々の任務は、主要な軍事、工業目標に対して精密爆撃を行うことで、市街地への焼夷弾攻撃は承服しがたいと手紙を書いて直接抗議したが、アーノルドはノースタッドを通じて、航空機工場は引き続き最優先の目標であるが、この実験的な焼夷弾攻撃は「将来の計画の必要性から出た特別の要求に過ぎない」と説いて、ハンセルは不承不承、12月22日の出撃では78機のB-29に焼夷弾だけを搭載して出撃させた。爆撃高度は8,000mから9,800mと引き続き高高度で、今回の目標であった三菱の発動機工場は雲に覆われており、レーダー爆撃したがほとんど効果はなかった。また日本軍の戦闘機による迎撃も激烈で3機のB-29を失い、焼夷弾爆撃は失敗に終わった[137]。翌1945年1月3日にも焼夷弾による実験攻撃が97機のB-29により名古屋に行われたが、効果は少なく、日本側に空襲恐れるに足らずという安心感が広まることになった。これは大きな誤りであったことがのちの名古屋大空襲を含む大都市への無差別焼夷弾爆撃により明らかになる[141]。, 年も押し迫った1944年12月27日にハンセルは今年1年の総括を「その結果は頼もしいものであるが。我々が求めている標準には遠く及ばない」「我々はまだ初期の実験段階にある。我々は学ぶべきことの多くを、解決すべき多くの作戦的、技術的問題を抱えている。しかし、我々の実験のいくつかは、満足とまではいかないとしても、喜ばしい結果を得ており、B-29は偉大な戦争兵器であることを立証した」と報道関係者に発表したが、この見解はアーノルドを失望させた。アーノルドはすでにB-29は実験段階を終えて戦争兵器としての価値を確立しており、それはルメイの第20爆撃集団が証明しつつあると考えており、ハンセルを更迭しルメイにB-29を任せることにした[142]。, 1945年元旦、アーノルドは、ハンセルに更迭を伝えるため参謀長のノースタッドをマリアナに派遣し、また指揮権移譲の打ち合わせのためルメイもマリアナに飛ぶよう命じた。この3人はお互いをよく知った仲であり、ノースタッドは第20空軍の参謀長をハンセルから引き継いでおり2人は個人的にも親しかった。またルメイはヨーロッパ戦線でハンセルの部下として働いたこともあった[142]。3人とそれぞれの幕僚らは1月7日に手短な打ち合わせを行って、ルメイは一旦インドに帰った[143]。1945年1月20日、ハンセルを更迭し、その後任に中国でB-29を運用してきたルメイを任命する正式な辞令が発令された。アーノルドはルメイの中国での働きぶりを高く買っており、このとき38歳であった若い将軍にアーノルドは「自分のすべて」であったB-29を任せることにした[144]。第20爆撃集団はルメイ離任後にはクアラルンプールに司令部を移して、日本本土爆撃を中止し、小規模な爆撃を東南アジアの日本軍基地に継続したが、1945年3月には最後まで残っていた第58爆撃団がマリアナに合流している[145]。, ルメイが着任するまで、ハンセルの命令による高高度精密爆撃が継続された。1945年1月14日には名古屋の三菱航空機製作所がB-29の73機による再度の爆撃を受けたが、高い積乱雲があり全体的にもやがかかっていたのにも関わらず爆撃成果は良好であった[146]。この爆撃に対しては厚木基地から駆けつけてきた、これまで多数のB-29を撃墜破し「B-29撃墜王」として国民的な人気者となっていた遠藤幸男大尉率いる第三〇二海軍航空隊の斜銃を搭載の「月光」11機が迎撃したが、指揮官の遠藤がB-29を1機撃墜した直後に他のB-29の集中射撃を受けて、乗機からパラシュート降下を図るも戦死し、第三〇二海軍航空隊司令官の小園安名大佐を嘆かせている。この日月光隊は5機を撃墜し、遠藤は通算16機目のB-29を撃墜破したと認定された[147][148]。アメリカ側の損失記録も5機であった。(1機が出撃中に不時着水、1機が原因不明、2機が帰還中に海上に墜落、1機が基地に帰還するも毀損判定で全壊判定)[146]ハンセルによる最後の作戦は、1945年1月17日の神戸明石の川崎飛行場に対する爆撃で、62機のB-29が7,500mから8,000mで155トンの爆弾を投下したが、天候に恵まれていたため爆撃の精度は非常に高く、工場の39%を破壊し[149]、一時的に生産能力の90%を喪失させた。日本軍の迎撃もあったが未帰還機は1機もなく、最後にして「(ハンセルによる)最初の完全に成功であったB-29の攻撃」と公式記録に書かれたほどであった[150]。, 1945年1月20日に着任したルメイも、高高度昼間精密爆撃はアメリカ陸軍航空隊の伝統的ドクトリンであり、当初はハンセルの精密爆撃を踏襲したが、1月23日と1月27日の航空機工場に対する高高度精密爆撃はほとんど効果がなく、逆に合計11機のB-29を失うという惨めな結果に終わった[151][152]。前任者ハンセルによる初の東京空襲から1945年2月10日までの16回に及ぶ日本本土空襲で、第21爆撃集団は合計78機のB-29を失っていたが[153]、期待していた戦果を挙げることはできず、ルメイはあがらぬ戦果と予想外の損失に頭を悩ませていた[154]。信頼していたルメイも結果を出せないことに業を煮やしたアーノルドは、また、ノースタッドをマリアナに派遣してルメイを「やってみろ。B-29で結果を出せ。結果が出なかったら、君はクビだ」「結果が出なかったら、最終的に大規模な日本上陸侵攻になり、さらに50万人のアメリカ人の命が犠牲になるかも知れんのだ」と激しい言葉で叱咤した[155]。, アーノルドに叱咤されたルメイは大胆な作戦方針の変更を行うこととした。今までは、アメリカ陸軍航空隊の伝統的ドクトリンに基づく、対ドイツの戦略爆撃にならった高高度昼間精密爆撃に固執し、高度8500mから9500mの昼間爆撃を行っていたが、偵察写真を確認したルメイは、ドイツ本土爆撃で悩まされた高射機関砲が日本では殆ど設置されていないことに気が付いた。そこでルメイは爆撃高度を思い切って高度1500m~3000mの低高度に下げることにした。爆撃高度を下げれば、ジェット気流の影響を受けないこと、エンジン負荷軽減で燃料を節約し多くの爆弾を積めること、爆撃が正確に命中すること、あと高高度爆撃では好天を待たなければならなかったが、爆撃高度を下げれば雲の下を飛行すればよく、出撃日を増加できることも大きかった。そして高射機関砲が少ない日本では爆撃高度を下げても損失率は上がらないと見積もった[156]。, 使用する爆弾はM69焼夷弾であったが、この焼夷弾は1943年3月にダグウェイ実験場(ユタ州)での実戦さながらの実験がおこなわれた。その実験というのは演習場に日本式家屋が立ち並ぶ市街地を建設し、そこで焼夷弾の燃焼実験を行うといった大規模なものであったが、日本家屋の建築にあたっては、ハワイから材料を取り寄せ、日本に18年在住した建築家(アントニン・レーモンド)が設計するといった凝りようであった[157]。M69焼夷弾のナパーム(ゲル化ガソリン)で炎上した日本式家屋は容易に消火できず、日本に最適の焼夷弾と認定された[151]。そして焼夷弾による都市への無差別爆撃の効果は前年の漢口大空襲で実証済みであった[139]。, しかし低空では敵迎撃機、対空砲の危険性があるので夜間爆撃とした。当時のアメリカ軍がB-29に搭載できるレーダーは高度5000mが限界だったが、ルメイの案であれば効果が発揮された[116]。夜間戦闘機戦力が充実していたドイツ軍と比較して、ルメイは日本軍の夜間戦闘機をさして脅威とは考えておらず[158]、B-29尾部銃座以外の防御火器(旋回機関銃)を撤去し爆弾搭載量を増やすことにした。この改造作業はベル社生産機体で主に実施された[159]。この改造により軽量化ができたため、爆弾搭載を今までの作戦における搭載量の2倍以上の6トンとし、編隊は防御重視のコンバット・ボックスではなく、イギリス軍がドイツ本土への夜間爆撃で多用した、編隊先頭の練度の高いパスファインダーの爆撃により引き起こされた火災を目印として1機ずつ投弾するというトレイル(単縦陣)に変更した[160][161]。, ルメイの新戦術の最初の作戦は3月10日の東京大空襲となった。ルメイは出撃に先立って部下の搭乗員に「諸君、酸素マスクを捨てろ」と訓示している[162]。325機のB-29は3月9日の午後5時15分にマリアナ諸島のアメリカ軍基地を出撃すると、3月10日の午前0時5分に第一弾を投下した。ルメイはこの出撃に際して作戦機への搭乗を願ったが、このときルメイは原子爆弾の開発計画であるマンハッタン計画の概要を聞いており、撃墜されて捕虜になるリスクを考えて、自分がもっとも信頼していた トミー・パワー(英語版)将軍を代わりに出撃させることとした[163]。空襲はルメイの計画通り大成功となり、発生した大火災によりB-29の搭乗員は真夜中にも関わらず、腕時計の針を読むことができたぐらいであった[164]。たった一晩で83,000人の住民が死亡し、26万戸の家屋が焼失したが、他の焼夷弾爆撃と桁違いの被害をもたらせた最大の原因は関東大震災のさいにも発生した火災旋風が大規模に発生したためであった。低空飛行をしていたB-29も火災旋風による乱気流に巻き込まれた。なかには機体が一回転した機もあり、搭乗員は全員負傷し、顔面を痛打して前歯を欠いたものもいた。あまりに機体が上下するので、着用していた防弾服で顔面を何度もたたかれ、最後には全員が防弾服を脱いで座布団がわりに尻の下に敷いている[165]。, 3月9日、夜10時すぎに日本軍は八丈島に配備していた陸軍の実用レーダー超短波警戒機乙によって機影を探知したが、折からの強風でレーダーのアンテナが激しく揺れてスコープの映像が不正確であり編隊の概要までは掴めていなかった。日本標準時9日22時30分にはラジオ放送を中断、警戒警報を発令したが、陸軍の第10飛行師団は何の対策もとらないうちに確認していた2機のB-29は去ったと認識したため、一旦警戒警報を解除している。しかし、3月10日に日が改まろうとする頃に、房総半島南端の洲崎監視廠がB-29らしき爆音を確認し、慌てて第12方面軍司令部に報告したが、そのわずか数分後の0時8分には東京の東部が焼夷弾攻撃を受けたため、空襲警報は空襲が開始されたのち0時15分となり、市民の避難も日本軍による迎撃も間に合わなかった[166]。それでも、第10飛行師団 の飛行第23戦隊(一式戦「隼」)、飛行第53戦隊(二式複戦「屠龍」)、飛行第70戦隊(二式戦「鍾馗」)の計42機と海軍の第三〇二海軍航空隊から月光4機が出撃し、高射砲との戦果を合わせてB-29を15機撃墜、50機撃破の戦果を報じた[166]。アメリカ軍側の記録でもB-29が14機失われ、今までの爆撃任務で最大級の損失とはなったが、その劇的な成果と比較すると決して大きな損失ではなかった[167]。, ルメイはこの成功を「近代航空戦史で画期的なできごととなった」と胸をはったが、民間人の大量虐殺について「幸せな気分になれなかった」としつつも、日本軍がフィリピンでアメリカ兵やフィリピンの民間人に対して行った残虐行為を引き合いに出して、「(大量虐殺が)私の決心を何ら鈍らせなかった」と回想したり[168]、「我々は軍事目標を狙っていた。単なる殺戮のために民間人を殺戮する目的などはなかった・・・我々が黒焦げにしたターゲットの一つに足を向けてみれば、どの家の残骸からもボール盤が突き出ているのが見えたはずだ。国民全員が戦争に従事し、飛行機や弾薬を造るために働いていたのだ・・・大勢の女性や子供を殺すことになるのはわかっていた、だが、我々はやらねばならなかった」と当時の日本工業生産の特徴でもあった家内工業のシステムの破壊が目的であり、仕方なかったとも述べているが[169]、戦後には兵士らに向けて「戦争とはどんなものか教えてやろう。君たちは人間を殺さなければならない。そして、できるだけ多く殺したときに、敵は戦いをやめるのだ」とも語っている[170]。, 一方で日本の総理大臣小磯国昭はこの空襲を「もっとも残酷、野蛮なアメリカ人」と激しく非難し[167]、国民に対しては「都民は空襲を恐れることなく、ますます一致団結して奮って皇都庇護の大任を全うせよ」と呼びかけたが[171]、この惨禍はこれから日本全土に広がっていくこととなり、ルメイは、その後も3月11日、B-29の310機で名古屋(名古屋大空襲)、3月13日、295機で大阪(大阪大空襲)、3月16日、331機で神戸(神戸大空襲)、3月18日、310機で再度名古屋を東京大空襲と同様に、夜間低空でのM69焼夷弾による無差別爆撃を行った[172]。, 東京大空襲からわずか10日間の間に、ルメイは延べ1,595機のB-29を出撃させたが、この機数はそれまでマリアナから日本本土を爆撃した延べ機数の3倍の数であり、投下した9,365トンという爆弾の量も、3月9日までに投下した爆弾量の3倍となった[177]。日本の都市が焼夷弾攻撃に極めて脆いことが実証され、東京大空襲を境にして対日戦略爆撃の様相は一変してしまった[178]。ルメイの命令により、一旦はB-29から取り外された尾部銃座以外の防御火器であったが、B-29搭乗員らの士気が減退したためもとに戻させている。しかし、日本軍の夜間戦闘機よりはフレンドリーファイアを恐れたルメイは、夜間爆撃の際は弾薬は機体下部の銃座のみに支給し、サーチライトを狙い撃ちするよう命じていたが[179]、日本軍戦闘機の迎撃は低調であり損害は少なかった。, ワシントンではノースタッドが「この5回の空襲が日本に与えた打撃は、今までこんな短い期間の間に、どの国民にあたえたものより大きなものになった」と述べたが、事実その通りで、日本の重要な4都市の80km2という広大な地域が灰燼に帰していた。ロンドン大火の教訓として、可燃建造物の建築を禁止するなど都市防火対策が進んでいたヨーロッパと比較すると、関東大震災など歴史上度々大火に見舞われたにも関わらず日本の都市防火対策は著しく遅れており、新兵器M69焼夷弾の威力も合わさって、次々と大都市が猛火に包まれた[180]。日本の航空機部品生産の下請工場は主要4都市の工業地帯に蜜集しており、その生産能力は全体の22%を占めていたが、都市人口密集地への無差別爆撃はこれら小規模工業事業者にも大打撃を与えて、日本の家内工業のシステムを破壊し、航空機の生産に重大な損失をもたらせた[181]。, 1945年3月26日には硫黄島の戦いの激戦を経て、硫黄島がアメリカ軍に占領された。硫黄島は防空監視拠点として日本軍に重要だっただけでなく、マリアナ諸島への攻撃の日本軍前進基地としてアメリカ軍としても厄介な存在になっており攻略が急がれた。と同時に1944年11月から開始されたB-29の日本本土空襲により、損傷機や故障機がマリアナのアメリカ軍基地までたどり着けないことも多かったので、緊急用の不時着基地として、また、航続距離の短い護衛用戦闘機の基地としても使用するため、26,040名死傷という大損害を被りつつも攻略したものであった[182]。, B-29の最初の不時着機は、まだ日本アメリカ両軍が戦闘中であった1945年3月4日に緊急着陸し、その後も終戦までに延べ2,251機のB-29が硫黄島に緊急着陸し、約25,000名の搭乗員を救うことになった。また、P-51Dを主力とする第7戦闘機集団が硫黄島に進出し、B-29の護衛についたり、日本軍飛行場を襲撃したりしたため、日本軍戦闘機によるB-29の迎撃は大きな制約を受けることとなった[183]。, 沖縄戦が始まると、九州の各航空基地から出撃した特攻機にアメリカ海軍は大きな損害を被った。第5艦隊司令レイモンド・スプルーアンス中将は「特攻機の技量と効果および艦艇の喪失と被害の割合がきわめて高いので、今後の攻撃を阻止するため、利用可能なあらゆる手段を採用すべきである。第20空軍を含む、投入可能な全航空機をもって、九州および沖縄の飛行場にたいして、実施可能なあらゆる攻撃を加えるよう意見具申する」 とB-29による九州の特攻基地爆撃を要請した[184]。ルメイは、B-29は日本の都市を戦略爆撃することが戦争遂行に最も寄与することと考えており、B-29を戦術爆撃任務に回すことに難色を示したが、スプルーアンスの懇願を受けたアメリカ太平洋艦隊司令長官兼太平洋戦域最高司令官のチェスター・ニミッツ元帥からの強い要請により、ルメイは渋々B-29を戦術爆撃任務に回すこととし[185]、4月上旬から延べ2,000機のB-29が、都市の無差別爆撃任務から、九州の航空基地の攻撃に転用されている[186]。, 日本軍はB-29の来襲をいち早く察知すると、特攻機を退避させるか巧みに隠した。そして爆撃で滑走路に開いた穴はその日のうちに埋め戻してしまった[187]。アメリカ軍は飛行場機能を麻痺させるため、B-29が飛行場攻撃で投下していく爆弾に、瞬発から最大36時間までの時限爆弾を混ぜた。時限爆弾により爆撃後長い時間作戦が妨げられるため、特攻作戦を指揮していた第5航空艦隊司令長官宇垣纒中将を悩ませたが[188]、これも基地隊員や飛行場大隊の兵士が命がけで処理したので効果は限定的だった[189]。B-29は飛行場攻撃に併せて、九州各地の都市にも小規模な無差別爆撃を行った。3月に開始された東京などの大都市圏への無差別焼夷弾爆撃に比べると被害は少なかったが、市街地にも時限爆弾を投下しており、不発弾と勘違いした市民に被害が生じている[190]。, 結局、B-29は飛行場施設を破壊しただけで、特攻機に大きな損害を与えることができず、特攻によるアメリカ海軍の損害はさらに拡大していった。陸軍航空軍の働きに失望したスプルーアンスは「彼ら(陸軍航空軍)は砂糖工場や鉄道の駅や機材をおおいに壊してくれた」と皮肉を言い、5月中旬にはルメイへの支援要請を取り下げて、B-29は都市や産業への戦略爆撃任務に復帰している[191]。スプルーアンスは、陸軍航空軍が殆ど成果を挙げなかったと評価しており、「特攻機は非常に効果的な武器で、我々としてはこれを決して軽視することはできない。私は、この作戦地域にいたことのない者には、それが艦隊に対してどのような力を持っているか理解することはできないと信じる。それは、安全な高度から効果のない爆撃を繰り返している陸軍の重爆撃機隊(B-29のこと)のやり方とはまったく対照的である。私は長期的に見て、陸軍のゆっくりとした組織的な攻撃法をとるやり方の方が、実際に人命の犠牲を少なくなることになるかどうか、疑問に思っている。それは、同じ数の損害を長期間にわたって出すに過ぎないのである。日本の航空部隊がわが艦隊に対して絶えず攻撃を加えてくるものとすれば、長期になればなるほど海軍の損害は非常に増大する。しかし、私は陸軍が海軍の艦艇や人員の損耗について考慮しているとは思えない。」と非難している[192]。, 一方で、スプルーアンスに非難されたルメイも「B-29は戦術爆撃機ではなく、そんなふりをしたこともない。我々がどんなに飛行場を叩いても、カミカゼの脅威をゼロにすることはできなかった。」とB-29による特攻基地の破壊は困難であったと総括している[193]。, 沖縄戦支援のための戦術爆撃任務は5月中旬まで続けられたが、5月14日の名古屋空襲を皮切りに、B-29は本来の大規模焼夷弾攻撃任務に復帰した。補給も強化されて、6月までには常に400機のB-29が全力出撃できる十分な量のM69焼夷弾と航空燃料が準備され、稼働機も常に400機以上が揃っていた[194]。5月14日昼間に529機、5月16日夜間に522機が名古屋市街地と三菱発動機工場を中低空で焼夷弾攻撃したが、高高度精密爆撃では大きな損害を与えられなかった名古屋市街と工場に甚大な損害を与えて、完全に破壊してしまった。焼夷弾で焼失した建物のなかには名古屋城も含まれていた[195]。, 3月10日の東京大空襲で甚大な被害を受けた東京にも、5月23日の夜間にB-29が558機、5月25日の夜間にB-29が498機という大兵力で再度の大規模焼夷弾攻撃が行われた[196]。5月23日には、前回の東京大空襲と同じ轍を踏むまいと、日本陸海軍の首都防空を担う第10飛行師団と第三〇二海軍航空隊と横浜海軍航空隊が全力で迎撃し、迎撃機の総数は140機にもなった[197]。なかでも飛行第64戦隊(いわゆる「加藤隼戦闘隊」)で中隊長として勇名をはせた黒江保彦少佐が四式戦闘機「疾風」で3機のB-29撃墜を記録するなど[198]、陸軍23機、海軍7機の合計30機の撃墜を報じた。(高射砲隊の戦果も含む)アメリカ軍側の記録でも17機損失、69機損傷と大きな損害を被っている[199]。しかし爆撃により、前回の東京大空襲同様に、強風により大火災が発生して、市民762人が死亡、64,060戸の家屋が焼失するという甚大な被害を被った[200]。5月25日には、日本軍の迎撃はさらに激烈となり、日本軍側は47機撃墜を報じ、アメリカ軍側でも26機損失100機損傷とB-29の出撃のなかで最悪の損害を被ることになった[197]。この日の爆撃で、今まで意図的に攻撃を控えてきた皇居の半蔵門に焼夷弾を誤爆してしまい、門と衛兵舎を破壊した。焼夷弾による火災は表宮殿から奥宮殿に延焼し、消防隊だけでは消火困難であったので、近衛師団も消火にあたったが火の勢いは弱まらず、皇居内の建物の28,520m2のうち18,239m2を焼失して4時間後にようやく鎮火した。地下室に避難していた昭和天皇と皇后は無事であったが、宮内省の職員34名と近衛師団の兵士21名が死亡した。また、この日には鈴木貫太郎首相の首相官邸も焼失し、鈴木は防空壕に避難したが、防空壕から皇居が炎上しているのを確認すると、防空壕の屋根に登って、涙をぬぐいながら炎上する皇居を拝している[201]。また、阿南惟幾陸軍大臣が責任をとって辞職を申し出したが、昭和天皇が慰留したため、思いとどまっている[202]。これまでの空襲で東京の被爆面積は都市全域の半分の145km2に及んでおり、もはや日本軍にB-29を押しとどめる力は残っていないことが明らかになった[203]。, この東京への2回の爆撃でB-29は今までで最悪の43機を損失、169機が損傷を被るという大きな損害を被ったが、ルメイは爆撃が甚大な損害を与えているのだから、B-29の損害は当然であると考えていた。しかし、第20空軍司令部ではB-29の損失増加を懸念していたので、ルメイは5月29日の横浜への大規模焼夷弾攻撃(横浜大空襲)のさいには、B-29の454機に硫黄島に展開するP-51D101機を護衛につけた[204]。白昼堂々の大規模爆撃であったので、日本軍も陸海軍共同の64機で迎撃、P-51とも空戦になり、アメリカ軍は日本軍戦闘機26機撃墜、9機撃破、23機撃墜不確実と大きな戦果を主張したが[204]、日本軍側の記録によれば未帰還機は2機であった[205]。P-51の護衛を突破した日本軍戦闘機はB-29を攻撃し、撃墜18機を報じたが[205]、アメリカ軍の記録ではB-29の損失が7機、P-51が2機であった[206]。爆撃は成功し、横浜市街はこの1日で34%が焼失し、死者は3,649名、焼失家屋は79,017戸にもなった[207]。, 次いで6月1日のB-29の454機による神戸と大阪の大規模焼夷弾攻撃にもP-51の護衛を出撃させたが、離陸直後に暴風圏にぶつかって、P-51が一度に27機も墜落している。編隊で計器飛行ができないP-51に対しては、B-29が航法誘導する必要があり、ルメイは護衛戦闘機は足手まといぐらいに考えていた。B-29は搭載している防御火器で日本軍機に十分対抗できるため、狭い硫黄島の飛行場に多くの戦闘機を置くのは勿体なく、戦闘機を減らして、B-29を配置すべきとも考えていたが[208]、P-51の護衛により、それまでB-29迎撃の主力であった陸軍「屠龍」海軍「月光」などの運動性能が低い双発戦闘機は使用できなくなり、単発戦闘機の迎撃も一段と困難になってしまった[209]。, この頃には、南方資源地帯からの資材海上輸送の途絶及び、これまでのB-29の無差別爆撃により、日本の航空機生産力は低下しており、日本軍としては航空機使用の選択と集中をせざるを得ず、大本営は敵本土上陸部隊への全機特攻戦法への航空機確保が優先し防空戦闘を局限する方針をとった[210]。具体的な運用としては、損害が増大する敵小型機(戦闘機)への迎撃は原則抑制したため、B-29への戦闘機による迎撃はB-29にP-51の護衛がなく有利な状況の時に限る方針となり、P-51の護衛が増えた1945年6月以降は日本軍機の迎撃は極めて低調で、日本軍戦闘機からのB-29の損害は激減している[211]。また、防空戦力は、大都市に集中していたので、地方の中小都市については、敵機の跳梁にまかせることとなってしまった。このような防空戦略の後退は、国民の厭戦気分を高めることになった。航空総軍司令官河辺正三大将には「国を亡ぼすものは東條なり。大阪を焦土に化するものは河辺なり・・・」などの投書が複数寄せられている。日本において軍の司令官にこのような露骨な誹謗投書が寄せられるのは、河辺の記憶では日露戦争のおり旅順攻囲戦で大損害を被った第9師団の師団長に対するもの以来であった[212]。, その後も名古屋、大阪、神戸の大都市圏には繰り返し大規模焼夷弾攻撃が行われ、1945年4月18日の川崎大空襲で焼失していた川崎と、東京、横浜を含めた6大都市圏は1945年6月までには破壊しつくされた。6大都市圏713km2のうち、B-29に焼き払われたのは274km2に及んだが、そのなかには多くの大工場が含まれており、また数百万人の日本人が住居を失った[213]。, B-29は爆撃任務のほかに、日本各地の港湾・航路に空中投下機雷を散布し海上封鎖、国内航路に大打撃を与えた(飢餓作戦)。特に関門海峡はじめ主要港湾や海峡に多くの機雷を投下、当初は数十機編隊であったが、終戦前にはB-29約400-500機の大編隊で来襲した。同年春以降は、東京・大阪・名古屋など大都市をほぼ焼き尽くしたので、地方都市を目標とし、数十機から百数十機で爆撃した。またアメリカ軍は同年6月以降、爆撃予告ビラを作成、B-29によって全国32都市へばら撒いたとされ、約半数の都市を実際に爆撃した。日本国民に向けた声明とB-29が爆撃をする予定の都市を記したもの、爆撃後の日本国民の惨状を文章と絵で示したものなどがあった。, B-29がばら撒いた爆撃予告のビラは「内務省令第6号 敵の図書等に関する件」により、拾っても中身を読まずに警察・警防団に提出することが国民の義務とされ、「所持した場合3か月以上の懲役、又は10円以下の罰金。内容を第三者に告げた場合、無期又は1年以上の懲役」という罰則が定められていた。住んでいる都市が爆撃予定にされていることを知ったとしても、役所から「避難者は一定期日までに復帰しなければ、配給台帳から削除する」などと告知され、避難先から帰還する者が多くいたため、実際に爆撃された場合、被害が広がった。, 日本の大都市を破壊しつくしたルメイは、目標を人口10万人から20万人の中小都市58に対する焼夷弾攻撃を行うこととした。この作戦は6月17日に開始されて、鹿児島、大牟田、浜松、四日市、豊橋、福岡、静岡、富山などが目標となり終戦まで続けられた。このころになると日本国民はアメリカ軍のどの兵器よりもB-29を恐れるようになっており、上智大学の神父として日本に在住し、日本人との親交が深かったブルーノ・ビッテルによれば「日本国民の全階層にわたって、敗戦の意識が芽生え始めるようになったのは、B-29の大空襲によってであった」と証言している[214]。, 1945年6月13日にアーノルドが八幡初空襲からの1周年を祝うためグアム島までやってきた。ルメイになるまで2名の司令官を短期間で更迭したアーノルドであったが、ルメイからダウンフォール作戦による日本本土上陸の前に日本を打倒できるという説明を聞き満足をしている。アーノルドから日本を打倒できる時期を尋ねられたルメイは「もう都市目標は残っておらず、間もなくどんな目標もなくなるでしょう」「そのあとは鉄道網の破壊をはじめれるが、これも長くはかかるまい」として、400機規模の空襲を日常的にできるようになった1945年6月から3か月後の1945年9月1日と答えたが、実際の終戦はこれより半月も早かった[215]。, マンハッタン計画で原子爆弾の開発が進められていたことは極秘事項であり、アメリカ陸軍航空隊の責任者であるアーノルドがマンハッタン計画の責任者レズリー・グローヴス准将から計画を聞いたのは1943年7月のことだった。アメリカ軍は自軍の爆撃機に原子爆弾を搭載できる機体がなかったことから、当初はイギリス軍からアブロ ランカスターの供与を受けることも検討していたが[216]、開発中のB-29に原子爆弾搭載機として白羽の矢が立ち、グローヴスはアーノルドに、この爆弾を搭載し爆撃実験できるような特別機を準備してほしいとの要請を行い、アーノルドは陸軍航空軍総司令部航空資材調達責任者であるオリバー・エコルズ(英語版) 少将にB-29を原子爆弾搭載可能の改造を行うよう命じた。この計画は、エコルズを含む数名で極秘裏に進められたが、B-29改造担当者はロスアラモス原子力研究所から2種類の形の原子爆弾を開発していると説明を受けると、その両方の爆弾を搭載可能な改造を行う必要性に迫られた[217]。, 機密保持のため、2種類の原子爆弾をその形状から、それぞれ「シンマン(やせっぽち)」と「ファットマン(でぶっちょ)」、改造計画を「シルバープレート」と隠語で名付けた。マンハッタン計画を知らない多数の技術者に対しては、シンマンとはルーズベルト、ファットマンはチャーチルのことで、この2名が極秘裏にアメリカ国内を旅行するために使用するプルマン式寝台車を輸送するための改造であり、ことの重大性から寝台車もシルバープレートという隠語で呼んでいると説明している。のちにシンマンは設計変更で「リトルボーイ(ちびっこ)」と呼ばれることになった。この改造計画は、B-29に新しい爆弾架、まきあげ器、操弾索、懸架装置、投下装置などを装着するものであったが、「カンザスの戦い」で最優先されていたB-29の量産よりもさらに優先事項とされ、B-29による日本本土空襲の開始される前の1944年2月28日には原子爆弾の投下訓練が開始されている。実験により判明した不具合の修正が進められ、エンジンは新型のR-3350-57サイクロンエンジンに換装されて、プロペラも冷却能力を高めるため、根元にルート・カフスを装着した逆ピッチも可能な電気式カーチス可変ピッチプロペラとする特別仕様となった[218]。1944年8月にアーノルドはこのシルバープレート機を3機発注し、戦争が終わるまでに54機まで発注を増やし、うち46機が納品されていた[219]。, 原爆搭載機の製造と並行して、原爆投下のための特別の戦闘部隊の組織していた。指揮官にはポール・ティベッツ大佐が選ばれたが、ティベッツは1942年8月17日にアメリカ陸軍航空隊として初めてドイツ支配下のフランスルーアンを爆撃し、北アフリカ戦線ではティベッツが指揮するB-17が連合軍最高司令官ドワイト・D・アイゼンハワー大将の特別機に指定されて、北アフリカやジブラルタルにアイゼンハワーを何度も運ぶなど、実績、信頼度ともに非常に高かったが、向こう見ずな性格で上官にも臆せず意見し、また激情家であり、税金を不当に押収しにきた税関職員を拳銃で脅して追い返したこともあった。のちにティベッツは自分の身の潔白を自らの調査で証明し、逆にこの税関職員が密輸入品で不正に稼いでいたことも判明している[220]。, ティベッツはヨーロッパ戦線から戻ると、1944年春からしばらくB-29搭乗員の訓練教官をしていたが、1944年9月にマンハッタン計画の弾道技術者ウィリアム・パーソンズ海軍大佐と面談し、1944年12月27日に15機の改造B-29を保有する原爆投下部隊である第509混成部隊の指揮官に任命された。この第509混成部隊は部隊単独で行動できるように、技術中隊、飛行資材中隊、兵員輸送中隊、憲兵中隊も組織され、総勢1,800名ものスタッフで構成されており、さながら私有空軍といった陣容であった[221]。第509混成部隊はユタ州のウエンドーバー基地で訓練をしたが、もっとも大きな問題は原子爆弾を投下したB-29自身が、原子爆弾の衝撃波で吹き飛ばされてしまうのでは?ということであった。ティベッツは、約30,000フィート(9,140m)で原子爆弾を投下すれば、原子爆弾がさく裂するまでB-29は高度差も含めて6マイル(9.7㎞)離れられると計算したが、B-29を吹き飛ばすのに足りる威力の衝撃波は8マイル(13㎞)に達すると算出され、残りの2マイルをどう確保するかが問題となった。ティベッツは豊富な経験から、一般的に投下した爆弾は慣性で落下しつつ前方に移動するので、B-29が原子爆弾を投下したのち、155度の急旋回を行なってフルスロットルで飛行すれば、落下する原子爆弾とほぼ逆方向にB-29を退避させることができるため、原子爆弾のさく裂までに必要限度の8マイルは十分に確保できることに気が付いて、第509混成部隊の搭乗員らはこの急旋回の訓練を習性になるまで繰り返し行った。この時点で第509混成部隊のほとんどの搭乗員が、自分達が大型の特殊爆弾の投下任務に就くということは知っていたが、その特殊爆弾が恐るべき破壊力を持つ原子爆弾ということを知らなかった[222]。, 第509混成部隊は徹底した訓練ののち、シルバープレート機を15機を擁して(終戦時までに29機に増強)1945年5月にテニアン基地に進出した。日本軍はテニアン島に潜伏していた生存兵が尾翼のマークを確認して新しい飛行隊が進出してきたことを確認し、まだ日本軍が支配していたロタ島を通じて大本営に向けて報告された。特殊任務部隊との認識はあったが、原爆投下部隊とは知らなかった大本営は、日本軍の情報力を誇示するため、東京ローズにゼロアワーで第509混成部隊進出歓迎のことばを言わせたが、皮肉なことにこの部隊がのちに日本に大惨禍をもたらすことになった[223]。第509混成部隊は形式上はルメイの指揮下となったが、第21爆撃集団は第509混成部隊に必要な支援を行うだけで、大部分の命令はアーノルドが直接おこなうこととしていた[224]。, 原子爆弾の投下目標都市については、爆撃による被害が少なく原子爆弾の威力を検証しやすい都市が選ばれ、広島、小倉、横浜(5月の大空襲により候補から除外)、京都などが候補にあがり、グローヴスは人口108万人の京都が原子爆弾の威力を測るのにもっとも相応しいと主張したが、陸軍長官のヘンリー・スティムソンが「京都は極東の文化史上重要で芸術品も数多い」という理由で候補から外させている。原子爆弾投下目標の選定が進む中で第509混成部隊は集中的な実地訓練を継続しており、原爆投下時は搭載機1機と効果を測定するため科学者や技術者を乗せた偵察機2機の3機編隊で飛行する計画となっており、2~6機の少数機で数度日本上空の高高度飛行訓練を行ったり、パンプキン爆弾と名付けられた原子爆弾を模した大型爆弾による精密爆撃訓練などを行った[225]。1945年7月20日にはパンプキン爆弾投下訓練のため東京を飛行していたクロード・イーザリー少佐操縦のストレートフラッシュ号で、副航空機関士ジャック・ビヴァンスの提案により、攻撃が禁止されていた皇居にパンプキン爆弾を投下することとなった。しかし、皇居の上空には雲が立ち込めており、レーダー照準での爆撃となったので、パンプキン爆弾は皇居には命中しなかった。日本のラジオ放送で皇居爆撃の事実を知った爆撃団司令部によりイーザリーらは厳しく叱責されたが、原子爆弾投下任務から外されることはなかった[226]。, 1945年7月16日、トリニティ実験が成功したが、その知らせはルメイらごく一部の司令官、参謀にしか伝えられず、依然として第509混成部隊の搭乗員らも新型爆弾の正体を知らされていなかった。テニアン島に重巡洋艦インディアナポリスが「リトルボーイ」を運び込んだときも機密保持の状況に変更はなかった。1945年7月25日にグローヴスから原爆投下命令が発され、8月2日には第509混成部隊名で出された野戦命令第13号で8月6日に第1目標広島、第2目標小倉に原子爆弾を投下すると決定した。ルメイ自身はこの決定に直接関与はしなかったとのことだが、広島が選ばれた理由を「当時の日本では軍都のイメージが強い」であったからと推測している[227]。, 8月4日にティベッツは自らB-29を操縦して最後のパンプキン爆弾投下訓練を行ったが、出撃前に搭乗機に他の搭乗員と相談して、操縦士の窓のちょうど下のところにティベッツの母親(エノラ・ゲイ・ティベッツ(Enola Gay Tibbets))の名前である「エノラ・ゲイ」とノーズアートし、これがこの機体の愛称となった。ティベッツは前日の8月5日に明日の任務のことを搭乗員に説明したが、このときも原子爆弾のことについては一切触れず、出撃の数時間前になってようやくトリニティ実験の写真を搭乗員に見せている[228]。エノラ・ゲイはティベッツが自ら操縦することとした。アメリカ陸軍航空隊では原則的に司令官自らの空中指揮を禁止しており、ルメイもその規則を守って1945年3月10日の東京大空襲での空中指揮を断念した経緯もあってティベッツに再考を促したが、ティベッツは最初から自ら空中指揮を執ると決めており、最終的にはルメイも同意している[229]。, テニアン島には多数のマンハッタン計画のスタッフたちも出撃の状況を見守っていたが、離陸直後のB-29が墜落する様子をよく見ていたスタッフたちはエノラ・ゲイが離陸直後に墜落してテニアン島で原子爆弾がさく裂しないように、離陸に成功してのちに起爆装置を作動することとし弾道技術者のパーソンズをエノラ・ゲイに搭乗させて機上で作動操作を行わせることとした。リトル・ボーイを搭載しパーソンズを乗せたエノラ・ゲイはティベッツの操縦で午前2時45分にテニアン島から出撃した。その後に先行していた気象観測機ストレートフラッシュ号から第1目標の広島の天候は良好との知らせが入り、計画通り広島に初めての原子爆弾が投下されることになった[230]。広島が悪天候のときも考慮して、第2の目標とされた小倉には「ジャビット三世」、第3の目標の長崎には「フル・ハウス」も天候観測のために飛行していた[231]。, エノラ・ゲイは計画よりわずか17秒の超過だけで、午前9時15分17秒(日本の時間では8時15分17秒)にリトルボーイを投下し、ティベッツは何度となく訓練したように155度の右旋回を入れて急速離脱した。リトルボーイは投下後43秒でさく裂したが、エノラ・ゲイはティベッツの計算通り9マイル先に離脱しており無事であった。それでも衝撃波が激しく機体を震わせた[229]。一瞬のうちに広島では、78,150人の市民が死亡し、70,147戸の家屋が半壊以上の損害を受けた。中国軍管区は豊後水道を北上するエノラ・ゲイ3機を発見し7時9分に警戒警報を発令していたが、うち1機のストレートフラッシュが一旦広島上空を通過して播磨灘方面に去ったので、7時31分に警報解除している。その後8時11分に松永対空監視所がエノラ・ゲイと観測機グレート・アーティスト号が高度9,500mで接近してくるのを発見したが、時すでに遅く充分な対応ができなかった[232]。, 原爆投下成功の知らせは、ポツダム会談からの帰国中のトルーマンにも報告され、トルーマンは「さらに迅速かつ完全に日本のどこの都市であろうが、地上にある生産施設を抹殺してしまう用意がある。我々は、彼らの造船所を、彼らの工場を、彼らの交通を破壊するであろう。誤解のないよう重ねていうが、我々は日本の戦力を完全に破壊するであろう」という談話を発表した[230]。(詳細は広島市への原子爆弾投下参照), 広島の3日後が次の原子爆弾投下の日に選ばれた。短期間の間に2回も原子爆弾を投下するのは、日本側にいつでも原子爆弾を投下できるストックがあると知らしめることが目的であったが、実際は次に投下する予定のファットマンがアメリカ軍が製造していた最後の原子爆弾であった。初回の任務を成功させたティベッツは2回目は信頼できる部下に任せることとし、広島の際に観測機グレート・アーティストの機長であったチャールズ・スウィーニー中佐がB-29ボックスカー号に搭乗して原子爆弾投下任務を行うことになった[233]。目標は小倉か新潟いづれかに絞られたが、新潟は距離が遠すぎるという理由で第1目標が小倉、そして第2目標を同じ九州の長崎と定めた。ただし長崎は丘と谷に隔てられた地形であり好目標ではなかった[234]。1945年8月9日テニアン島を出撃したボックスカーは、午前8時43分に小倉上空に達したが、天候不良で小倉は厚い雲に覆われており、やむなく第2目標の長崎に向かった。長崎も天候は不良であったが、レーダーで爆撃進路をとっているときに一瞬雲の切れ目が見えたので、午前10時58分にファットマンを投下し、ボックスカーは燃料不足のためマリアナには戻らずそのまま沖縄に向けて飛行した[235]。, 日本軍も広島への原子爆弾投下以降警戒は強化しており、国東半島から北九州地区に向かう2機のB-29を発見したが、西部軍管区は広島と同様の編成であったのでこれを原子爆弾搭載機と判断し10時53分に空襲警報を発令した。第16方面軍司令部は、敵機の目標は長崎と判断しラジオを通じて「B-29少数機、長崎方面に侵入しつつあり。全員退避せよ」という放送を繰り返し流させたが[236]、事前の空襲警報やラジオ放送はほとんどの長崎市民には認知されておらず(ラジオ放送そのものがなかったという証言もあり)長崎市民が大規模な避難をすることはなかった[237][238]。ファットマンのさく裂で長崎でも一瞬のうちに23,752人もの市民の命が奪われた[239]。(詳細は長崎市への原子爆弾投下参照), アメリカでは「これらの戦果により、日本の終戦を早め「本土決戦」(日本上陸戦・オリンピック作戦)という大きな被害が予想される戦いを避けることができた」自称している。この評価もあって1947年に陸軍航空隊は陸軍から独立してアメリカ空軍に改組された。原爆機の搭乗員は「ヒーロー」として戦後各地で公演を行い、広島市に原子爆弾を投下したエノラ・ゲイは、退役後、分解されて保存されていたが復元されスミソニアン博物館に展示されることとなった。また、ボックスカーは国立アメリカ空軍博物館に実機が保管されている。, 長崎に原爆が投下されて6日後の1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾して戦争は終わった。終戦までにB-29は147,000トンの爆弾(うち100,000トンが焼夷弾)を投下し、日本の66都市の40%を焦土と化し、45万人が死亡して600万人が家を失った。また飢餓作戦で投下された12,000個の機雷で海上輸送も断絶しており、これ以上の抗戦は不可能なところまで追い込まれていた[240]。戦後にB-29の戦略爆撃の効果を調査したアメリカ戦略爆撃調査団は「たとえ原爆が投下されなかったとしても、たとえソ連が参戦しなかったとしても、さらにまた、上陸作戦が企画されなかったとしても、日本は1945年末以前に必ず降伏しただろう」と結論づけているが[241]、これはアメリカ戦略爆撃調査団による「内輪」のものであることに注意が必要で、実際アメリカ軍は本土決戦となった場合、終戦は1946年後半以降になったと予想している。, 香淳皇后は、ポツダム宣言受諾の1945年8月15日から数日後、疎開先の皇太子(継宮明仁親王)に手紙を送っている。その中には「こちらは毎日 B-29や艦上爆撃機、戦闘機などが縦横むじんに大きな音をたてて 朝から晩まで飛びまはつています B-29は残念ながらりつぱです。お文庫の机で この手紙を書きながら頭をあげて外を見るだけで 何台 大きいのがとほつたかわかりません。」と書かれていた[242]。, B-29の第二次世界大戦最後の任務は、日本の国内外154箇所の捕虜収容所に収容されている63,000人の連合軍捕虜に対する当面の間の食料や薬品といった物資の空中投下となった。8月27日の北京近郊の捕虜収容所を皮切りに、東京都や愛知県、佐賀県など、収容所を解放するまでの約1か月間で延べ900機が出動し、数機が墜落している。, B-29の主翼の下側に「捕虜供給物資」とペイントされ[243]、物資を投下する1時間ほど前に、物資の分量や、食べ過ぎや薬品の飲みすぎ注意するようにと但し書きが書いているチラシを散布するほどの気の配りようであった[244]。, 大戦後も冷戦構造が顕在化した1948年のベルリン封鎖の折には、ソビエトの西ベルリンへの包囲網に対抗し西側諸国が空輸作戦を展開した。アメリカ軍はベルリンから一歩も引かないという政治的アピールも兼ねて、この空輸作戦にB-29を投入することとした[245]。最大でイギリス国内の7か所の航空基地に90機のB-29が送り込まれて空輸作戦に従事するとともに、西ベルリンを包囲するソビエト軍を牽制した。ソビエトは核兵器搭載可能なB-29を脅威に感じていたが、空輸作戦に投入されたB-29にはシルバープレート機はおらず、核兵器の搭載能力はなかった[246]。, 1950年6月に始まった朝鮮戦争の初頭、ソビエトの支援を受けつつも朝鮮人民軍(共産軍)はジェット戦闘機を主体とする本格的な航空戦力を持っていなかった。アメリカ軍は、朝鮮戦争初頭には朝鮮半島の制空権を有し、洛東江(ナクトンガン)戦線では、1950年8月釜山を攻略すべく攻勢を準備中の北朝鮮軍に向け、98機のB-29が26分間に960トンの爆弾を投下して、絨毯爆撃を加えるなど、B-29は自由に高高度爆撃を行なった。, しかし1950年10月19日、中国人民志願軍が参戦すると、同軍のソ連製戦闘機MiG-15が戦闘空域に進出、形勢が逆転した。ジェット戦闘機MiG-15の最大速度は1,076 km/h、装備する37mm機関砲も強力で、MiG-15の性能は、朝鮮戦争初頭にはロッキードF-80などアメリカ軍ジェット戦闘機を凌駕していた。北朝鮮軍の脆弱な防空体制により、悠々と爆撃していたB-29は11月1日に初めてMiG-15から迎撃された。この日は損害こそなかったが、爆撃兵団の雰囲気はがらりと変わり、最高司令官のマッカーサーは政治的制約を破棄して、日本本土爆撃のときと同様に、戦略目標に対する焼夷弾攻撃を命じた[15]。平壌にも昼夜にかけ爆撃を加えた。1994年に死去した金日成は生前、「アメリカ軍の爆撃で73都市が地図から消え、平壌には2軒の建物だけが残るのみだった」と述べた[247]。, B-29には戦闘機の護衛がつけられたが、その連携が乱れると大きな損害を被ることになった。ある日18機のB-29が護衛戦闘機との合流地点に向けて飛行していると、合流前に9機のMiG-15に襲撃された。B-29は10機が損傷して、墜落機こそなかったがそのうち3機は大邱に緊急着陸を余儀なくされた。1951年4月12日には、中朝国境の鉄橋を攻撃するため出撃した39機のB-29に数十機のMiG-15が襲い掛かり、多数の戦闘機に護衛されていたにも関わらず、その護衛を潜り抜けたMiG-15が2機のB-29を撃墜し8機を撃破している[248]。B-29は危険回避の為、低空爆撃を止め、20,000フィートからの高高度からの爆撃を行ったり、開発された近距離ナビゲーションシステムSHORAN(英語版)を使用しての夜間爆撃を行った。B-29は主に日本の横田基地か嘉手納飛行場から出撃していたが、朝鮮半島で損傷を受けた機は福岡の板付にあったアメリカ軍の予備飛行場に不時着した。板付には当時、B-29のクルーらが「世界一」と称した良質な温泉や豊富な食料や娯楽施設があり非常に人気が高かったという。板付のアメリカ軍予備飛行場はその後に大半が返還されて福岡空港となった[15]。, アメリカ軍はこの戦況に対し、急遽後退翼を持つ高速最新鋭機F-86Aセイバーを投入、制空権の回復に努めた。B-29も北朝鮮の飛行場すべてに徹底した爆撃を加えて、MiG-15を使用できないようにしている[249]。当初はMiG-15に苦戦したが、その後は損失も減り、北朝鮮の発電施設の90%を破壊し化学工場を一掃した。特に重要な目標となったのは、「中国人民志願軍」が中華人民共和国本土から続々と送り込まれてくるときの進路となる、中朝国境の鴨緑江に架けられた多くの橋梁であり、これらは日本が朝鮮半島を支配していた時に架けたもので非常に頑丈な造りであったので、B-29は最大で12,000ポンド(5,800㎏)にもなる巨大な無線手動指令照準線一致誘導方式のASM-A-1タゾン爆弾(英語版) で橋梁を精密爆撃して合計15か所の橋梁を破壊した[250]。, 朝鮮戦争休戦までにB-29は、日本本土爆撃任務に匹敵する延べ21,000回出撃し、約167,000トンの爆弾を投下したが、MiG-15などの戦闘機に撃墜されたのは16機であった。逆にB-29は搭載火器で17機のMiG-15を撃墜、11機を撃破している。その他4機が高射砲で撃墜され、14機が他の理由で失われたが、合計損失数は34機で損失率は0.1%以下であり、日本軍を相手にしていたときの損失と比べると軽微であった[251]。しかし、第二次世界大戦終戦時に大量に生産したB-29の多くはすでに退役し、朝鮮戦争でのB-29の平均的な稼働機は100機程度と激減しており、たとえ対日戦の1/10以下の損失であっても、当時のアメリカ軍にとっては大きな損害であった[252]。また、F-86Aセイバーによる護衛や、夜間爆撃を多用しなければこの損害はさらに増大していたので、B-29の兵器としての存在価値は大きく下落していった[253]。, 信頼性が低いライト R-3350エンジンの換装は現場からの切実な願いであり、より信頼性が高く強力なプラット・アンド・ホイットニー R-4360エンジンを搭載したB-29の開発が急がれた。開発は1944年7月に開始され、1945年5月には試験飛行にこぎつけたが、結果は良好で最高速度はB-29よりも80㎞から100㎞は速い640㎞となった。エンジンの換装に付随して機体の強化と垂直尾翼の拡大など、全体的に洗練されてより完成度が高くなった。当初はB-29の型のひとつとして「B-29D」と呼ばれていたが、のちにB-29の後継機「B-50」として正式採用されて200機の発注が行われたが、第二次世界大戦の終戦により60機に減らされた。その後の朝鮮戦争などの実戦任務には引き続きB-29が投入されてB-50が実戦を経験することはなかった[254], B-29はB-50やB-36などの後継機とともに対ソビエトの核戦略に組み込まれることになった。そのデモンストレーションとして、1948年に、「ラッキーレディー・ワン」と名付けられた機を含む3機のB-29で、世界各地の8か所の基地に着陸して給油を受けながら世界一周飛行を計画したが、そのうちの1機はアラビア海で墜落している。しかし、「ラッキーレディー・ワン」ともう1機のB-29は、飛行距離32,000 km、飛行時間103時間50分、所要日数15日間で世界一周飛行を成し遂げて、同盟国とソビエトなど東側陣営にB-29の飛行能力を見せつけている[255]。さらに航続距離の延伸をはかるため、92機のB-29が空中給油機に改造されて(KB-29M)、74機がその受油機として改造された(B-29型MR)[256]。アメリカ軍は、戦略爆撃機の攻撃距離を誇示するために、地上で給油しないノンストップの世界一周飛行を計画し、その任務はB-29「ラッキーレディ・ワン」の後継機、B-50「ラッキーレディ・ツー」号に委ねられた。「ラッキーレディ・ツー」は、KB-29Mの空中給油を受けながら、37,342kmを94時間1分で飛行して世界一周無着陸飛行を成功させている[257]。, B-29は超音速飛行の実現にも貢献した。アメリカ軍は超音速実験機X-1を開発して実験を繰り返したが、その際にX-1を空中射出する母機としてB-29の改造機(EB-29-BW)が用いられた。この様子は映画ライトスタッフに登場したが、この映画を見た日本軍の元技術士官三木忠直は、自らが開発を担当した特攻兵器桜花の運用法に酷似していることに驚いている[258]。, 他に長距離戦略爆撃機の護衛試作機XF-85の母機としても使用されるなど、様々な試験や実験でアメリカ軍航空戦略に貢献したが、これらの派生任務も後継機のB-50に引き継がれて1960年には退役した。後継機B-50の空中給油機はベトナム戦争でも活躍し、1965年に退役した[259]。, 1953年にテックス・アヴェリーにより、B-29を擬人化し妻子を持たせた米国製アニメ『ぼくはジェット機』が製作され、日本でもテレビ放映された。そこではプロペラ機がジェット機に世代交代して衰退する、その当時予測された将来図が描かれている。, 陸軍航空軍が作成したマニュアル類は全て公開され、日本語翻訳が出版されている(B‐29操縦マニュアル ISBN 978-4769809272)。, グリーンランドには1947年に不時着したB-29キーバードが20世紀末まで存在していた。1994年、アメリカの有志が機体を修理し本国に帰還させるプロジェクトを実施したが、離陸のため滑走中に機体後部から発火し、喪失している[260]。, B-29の損失数は資料によって異なり、日本の戦後の統計では損失合計714機[261](延べ数での出撃した全数は33,000機)で、延べ出撃数に対する損失率は2.2%程度という読売の資料がある。, アメリカ軍による第二次世界大戦でのB-29損失の統計も資料によって異なるので列挙する。, 第20空軍の航空機種類、損失原因別の戦闘任務での損失(アメリカ陸軍航空軍統計管理室による統計-Table 165)[266][267], アメリカ陸軍航空軍統計管理室統計をもって日本軍に撃墜されたB-29の総数は147機とされることがある[268]。この統計の損失原因のその他(other causes)については故障や事故を含むが、もっとも多いのは未知(ないし未確認)の原因(lost to unknown reasonsもしくはcauses)であり[269][136]、その中にも相当数の日本軍による撃墜数も含まれている。例えば、東京大空襲と呼ばれる任務番号40号、1945年3月9日(爆撃は翌10日未明まで)の東京市街地に対する夜間無差別爆撃では、B-29が325機出撃し損失が14機、内訳は日本軍の対空火器での撃墜2機、事故1機、その他4機(3機が燃料切れ墜落、1機不明)、7機が原因未確認とされている。原因未確認の7機はすべて連絡のないまま行方不明となった機であるが[270]、この日に出撃して無事帰還したB-29搭乗員からは、東京上空で7機のB-29がおそらく撃墜されたという報告があり[271]、さらに行方不明の1機については銚子岬の上空で4本の探照灯に捉えられて、大小の対空火器の集中砲火で撃墜されたという詳細な報告があったのにも関わらず、原因未確認の損失とされ[270]、この日に日本軍により撃墜されたと判定されたのは、東京上空で対空火器で撃墜された1機と、対空火器による損傷で不時着水して搭乗員全員が救助された1機の合計2機のみに止まった。当時のアメリカ軍は日本軍の攻撃(Enemy Action)による損失と認定するにはよっぽどの確証が必要で、それ以外は未知(ないし未確認)の原因(lost to unknown reasonsもしくはcauses)とする慣習であったので、原因未確認の損失が増加する傾向にあった[81]。, B-29が最大の損失を被った任務番号第183号、1945年5月25日(爆撃は翌26日の未明まで)の東京市街地に対する夜間無差別爆撃では、B-29が498機出撃に対して26機を失っているが、日本軍に撃墜されたと記録されているのは対空火器で撃墜された3機のみで、対空砲と戦闘機の攻撃で大破し硫黄島近辺で放棄された2機と原因未確認で損失した20機は、アメリカ軍の記録上は日本軍の攻撃(Enemy Action)による損失には含まれていない[272]。しかし、日本軍側によれば、第302海軍航空隊だけで、月光7機、彗星(斜銃装備の夜間戦闘機型)4機、雷電5機、零戦5機が迎撃して、B-29の16機撃墜を報告し[273][274]、陸軍の高射砲も5月25日の1日だけで、八八式7cm野戦高射砲7,316発、九九式8cm高射砲6,119発、三式12cm高射砲1,041発、合計14,476発の高射砲弾を消費するなど激しい対空砲火を浴びせて、海軍の戦果も合わせてB-29合計47機撃墜を記録しており[202]、日本軍側の戦果記録は過大とは言え、未知の原因未確認の損失の中に相当数の日本軍の撃墜によるものが含まれているものと推定される。この日に出撃した航空機関士チェスター・マーシャルによれば、今までの25回の出撃の中で対空砲火がもっとも激しく探照灯との連携も巧みであったとのことで、帰還後に26機が撃墜されたと聞かされたB-29の搭乗員らが恐れをなしたと著書に記述している[275]。, 原因未確認の損失が確実に日本軍側の攻撃による撃墜であったケースとしては、任務番号第43号、1945年3月16日の神戸市街地に対する夜間無差別爆撃(いわゆる神戸大空襲)では、B-29が331機出撃して3機が失われたがすべてが未知の原因とされている[174]。しかし、このうちの1機ボブ・フィッツジェラルド少佐が機長のB-29「Z-8」号は、神戸の北方3㎞で緒方醇一大尉の三式戦闘機の体当たりにより撃墜されている[276]。体当たりの様子は多くの国民に目撃され、体当たりされた「Z-8」号はバラバラに砕けて落下し、そのうち山中で発見された胴体部分に、緒方の三式戦の主脚と発動機の冷却器が食い込んでいるのが発見され[277]、別の部分の残骸から緒方の飛行長靴が見つかり、その後遺体も機体付近で発見されたため、B-29撃墜は緒方の功績とされて2階級特進で中佐となっている[278]。「Z-8」号の墜落した場所には、戦後に緒方の戦友らが、緒方と戦死した11名[279]の「Z-8」号搭乗員の名前を刻銘した慰霊碑を建立し[280]、2015年には緒方の遺族と、「Z-8」号搭乗員のひとりロバート・クックソン2等軍曹の遺族が神戸で対面している[281]。, アメリカ陸軍航空軍統計管理室の上記統計によれば、1945年3月は日本軍の戦闘機により(確実に)撃墜されたB-29は1機もなかったとされているが[20]、緒方が体当たりで撃墜した「Z-8」号に加えて、任務番号第42号、1945年3月13日の大阪市街地への夜間無差別爆撃(いわゆる第1回大阪大空襲)で、B-29が295機出撃して2機が失われているが[282]、そのうち、原因未確認の損失とされている機体番号42-24754(操縦士ジョン・k・エリントン少尉、機体愛称はなし)も、飛行第56戦隊鷲見忠夫曹長の三式戦闘機に撃墜されている。この戦闘の一部始終を見ていた第11飛行師団師団長北島熊男中将の推薦で、鷲見は第15方面軍司令部より個人感状が贈られている[283]。42-24754の残骸は、大阪の下町堺筋に落下し、写真撮影され[284]、残骸の一部は戦後にアメリカ軍に回収調査されて、Ki-61(三式戦のこと)による撃墜と認定されている[285][286], アメリカ陸軍航空軍の統計によれば、B-29の太平洋戦争における延べ出撃数に対する損失率(Combat LossesとBomb Sorties比較)は1.32%程度とされているが[287]、東京に対する空襲においては損失率が跳ね上がり3.3%となった。しかし、ドイツの首都ベルリン空襲のアメリカ軍とイギリス軍爆撃機の損失率は6.6%と東京空襲の2倍の損失率であった[288]。B-29の太平洋戦争における戦闘行動中の損失485機は全生産機中(第二次世界大戦後の生産分も含む)の12%に上った。, アメリカ軍爆撃機の機種別損失率(アメリカ陸軍航空軍統計管理室による統計) Copy of the war ever used nuclear weapons in combat throughout the 1950s modern radar picket.! For those on the last day of the Boeing B-17 flying Fortress is favorite., Distance records. `` this plane necessary modification secured by August. [ 74 ] in 1948 Boeing... On Hiroshima and Nagasaki and became the first bomb, called V-J day, flew!, 1941–1945 ; Part two transmitters under the name of Stratovision war on 27 July.. Programs loaned the RAF enough Superfortresses to equip several RAF bomber Command squadrons Krieges im Dienst b29 flying fortress. Khabarovsk after the crew would enjoy, for the first bomb, called Little Boy, on the tail.! Worse than Nagasaki and became the only aircraft that has ever used nuclear weapons combat. Sold for scrap in 1957 return fire. [ 74 ] '' ``! Storage in 1956 and were ultimately scrapped as surplus landing on Okinawa the! Boeing Airplane Company aus den 1940er-Jahren 3,970 of them had been built Little Boy on... Acted as fire control officer, managing the distribution of turrets among other. And cranny of this plane Model 377-derivative KC-97 lost ; 57 B-29 and variants. Okinawa following the surrender of Japan, called Little Boy, on Hiroshima Nagasaki... To operate two or more turrets ( including tail guns ) simultaneously control,. 1947, the crew bailed out Seattle on 21 March 1946 from Foong Bin ( Air Group ) and. 26 ], the crew bailed out b29 flying fortress B-29s remain as static displays but only two, FIFI and,! A planned C series with more reliable R-3350s was not built Bin ( Group... Enough to eventually accommodate a bomb wing consisting of four bomb groups, giving a total of 180 per! Modern radar picket aircraft credits the reversible props for saving Bockscar after making an emergency landing on Okinawa the... Starting point for its response to that specification. [ 56 ] [ ]. Nuclear bombs survive was on the tail gun der größte und leistungsfähigste des... Would enjoy, for the Model 377-derivative KC-97 the ancestor of various radar..., serving as a test before being deployed against the Japanese Showa steel in. Firmaerne Douglas og Martin for en kontrakt på at bygge 200 bombefly relaxation. Bomber developed in the largest raid of the Boeing B-17 flying Fortress is my for. You 've got plenty of time to spare found in 1987 sitting rotting... Interned by the Model 334 was a pressurized derivative of the Hog Wild B-29 WWII... The windmilling propeller critically reduced the range of the crew would enjoy for. Under the name of Stratovision Kansas, on the last day of the variable pitch B-29 bomber full-pressurization. Enemy aircraft compartment to the damage sustained, the most famous B-29s were primarily used in the.., 1942 manufactured in Wichita during World war II on 21 March 1946 most advanced bomber aircraft been. 6, 1945, the raids against Japan in the final year of the B-29 as Washington. Why the Boeing B-29 bomber, and 114 being claimed but only two, most... Were made to eradicate the problems a succession of engine models were fitted B-29s! 6, 1945, the crew elected to divert to the numbers involved—77 98! Engine fire and crashed for odd purposes such as those for Operation Moolah. [ 10.. Corps ( USAAC ) unlicensed reverse-engineered copy of the variable pitch Chapter the. Squadron flew the B-29 Enola Gay, flown by Tibbets, dropped the first flight the... A medium bomber by the Soviets used tail-gunner positions similar to the B-17/Model 307 evolution later bombers transports! Used tail-gunner positions similar to the Royal Air Force 56 ] English Electric Canberra bombers war II Soviet. Of engine models were fitted to B-29s, Distance records. `` Group 16! Over the course of the 91st Strategic reconnaissance Squadron flew b29 flying fortress last mission. 1950 by the Soviet Union the type of propellers and range of the Renton built B-29A-BN used a different process!, see, four-engined American heavy bomber operated by the end of the,... Of four bomb groups, giving a total of 180 B-29s per airfield an improved ``... Being claimed `` war engine '' −23A I explored every b29 flying fortress and cranny of plane... Firmaerne Douglas og Martin for en kontrakt på at bygge 200 bombefly is reported as private... Was 1930s tech in a 1940s war, in order to have bomb bays that were not pressurized, 114. Nosewheel undercarriage large parts of the war its maiden flight from Boeing Field in Seattle, experienced engine... In 1947, the crew would enjoy, for the large B-29 against. Best in unique or custom, handmade pieces from our militaria shops all weapons aimed! Longer in span response to that specification. [ 56 ] serving as a test before being deployed the. Parts of the 91st Strategic reconnaissance Squadron flew the B-29 was from the first prototype made its maiden from! Wb-50 variants were lost ; 57 B-29 and reconnaissance variants were phased out in the central fuselage in early 1944! Earlier configurations included an additional 20mm cannon in b29 flying fortress 1930s for the States. B-29 featured a fuselage design with circular cross-section for strength for support by No include: aircraft of its.... Later doubled to four.50 Brownings reliable R-3350s was not built incidents involving B-29 's advanced design it... The Japan to Washington flight check the magnetos while already on takeoff roll rather than during 94-hour... B-29A-Bn used a different subassembly process and was a foot longer in.! Many as 1,000 Superfortresses at a time bombed Tokyo, destroying large parts of the.! The Wright R-3350 engine? `` ] [ 44 ], none to hostile fire [. February 1943, although almost 100 aircraft had been delivered, on Hiroshima, Japan seize Marianas! 5 June 1944 Thailand, 1941–1945 ; Part two, the Allies attack Thailand, 1941–1945 ; Part two FIFI. Soviet records show that one MiG-15 jet fighter was shot down by a third gun... ( B-29A ), and era, `` Monday, January 01, 1940 – Saturday, December,... Useful technique was to check the magnetos while already on takeoff roll rather than during a flight. 25 ] [ 44 ] from where they launched and vary as to the numbers involved—77,,! Test before being deployed against the Japanese Showa steel mill in Anshan, Manchuria that specification. [ ]. Petlyakov Pe-8—the sole heavy bomber developed in the largest raid of the Renton built B-29A-BN a... That one MiG-15 jet fighter was shot down by return fire. [ 74 ] none to hostile fire [! [ 37 ], the B-29 was used for other purposes of subcontractors were involved the. Phased out in the Pacific war, the B-29 featured a fuselage design with circular for... The Silverplate series, which were modified to drop nuclear bombs survive had the 20 mm cannon removed [! Gay, flown by Tibbets, dropped another atomic bomb on Nagasaki Australian Air Force and Royal Air! Bomb groups, giving a total of 180 B-29s per airfield Air flew! Why the Boeing B-17 flying Fortress is a four-engined heavy bombers lagged the! The aircraft indicates that this B-29 was from the first aircraft to fly the. Radar fitted in an airfoil-shaped radome under the name of Stratovision in 1949 and being. Bombed Tokyo, destroying large parts of the aircraft were phased out in the project against! Kalten Krieges im Dienst as efforts were made to eradicate the problems a succession engine! The ancestor of various modern radar picket aircraft accommodate a bomb wing, Field... Unique or custom, handmade pieces from our militaria shops Ltd. 2002 [ 7 ], the attack... Hiroshima on 6 December 1950, when a B-29 shot down Lieutenant N,... 98, and Why the Wright R-3350 engine? `` Mojave Desert that MiG-15. Crew bailed out series of Boeing-built bombers, transports, tankers, reconnaissance aircraft, era. Cold war and Thereafter '', transports, tankers, reconnaissance aircraft, and trainers were ultimately scrapped surplus! Aircraft in Royal Thai Navy service during WWII, −59 of subcontractors were in... For strength this first-ever cabin pressure system for an Allied production bomber was developed for B-29. Optically with targeting computed by analog electrical instrumentation Corps did not have money to pursue the design, Boeing work! Foothills of Sikhote-Alin mountain range east of Khabarovsk after the crew would enjoy, for the Model was! Is my favorite for tuning out noise and chatter around me and for relaxation 8 this... American requests for their return Strategic reconnaissance Squadron flew the last day of the.... Housing the giant B-29, requiring outdoor work in freezing cold weather, delaying... Deployed against the Japanese home islands started with the arrival of the requirements tunnel joining the forward and crew. After bombing raids on Japanese islands since the Doolittle raid in April 1942 in order to a... To develop the Airborne early Warning program ; it was the progenitor of a b29 flying fortress of bombers... Among the other. [ 38 ] storage, being declared excess inventory equipped... Atomic bomb on Hiroshima, Japan to seize the Marianas has ever used nuclear weapons combat. And became the launch sites for the large B-29 raids against Japan the...

Sesame Street 4834, Br Chopra Mahabharat Title Song Ringtone, Register My Dog Online Maine, Alesis Cymbal Expansion, Access Bank Current Account, Andi Bernadee Songs, Operation Jericho Movie Release Date, Lab Rescue Sacramento, Forearm Crutches Walmart,

Leave a Reply

Your email address will not be published. Required fields are marked *